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 4月4日 アテネ〜アクロポリス・パルテノン神殿

  ギリシア時間、早朝5時20分。初対面のギリシアは闇。未だ夜明け前。

 降り立ったのは、3月終わりにオープンしたばかりの新空港。 新しいというだけでも随分明るい印象を受けるもので、不安を感じさせ ない空港だ。入国審査はパスポートを見せただけで無言のままスタン プを押してもらい、あっけなく終了。通過して少し歩けば、もうそこに は広々とした出口が見える。
 すぐ目の前の分かりやすい場所にあった両替所で、現金1万円を両替。手数料は1,500ドラクマとやや高いが、レートは悪くない。差し引き28,500ドラクマを受け取る。

 手前にピレウス行き、奥にシンタグマ行き、と、2台のバスが暗がり の中で乗客を待っていた。ピレウスはエーゲ海の島々への船が出る海の玄関口、シンタグマはアテネを歩く全ての旅行者にとっての中心となる広場がある場所だ。シンタグマ行きかどうかを確認し、運転手さんから1,000ドラクマのチケットを買う。ガイドブックで学んだとおり、ぎこちなくチケットを刻印機に差し込む。
 バスはけっこう混み合っている。発車して間もなく、闇が徐々に薄らいでゆく。 日の出とともに急速に明るくなってゆく窓外を眺めながら、私は未だどこか夢の中にいる。
 しばらくは広がりのある風景が続き、やがて街中に入ると、見知らぬ ギリシア文字の看板の数々が、微かな実感を促すかのように視界に飛び込んできた。
 既に通勤ラッシュの時間帯を迎えているようで、慌ただしく歩く人々、そわそわと信号を待っている人々が目に付く。
 シンタグマに到着。皆がわらわらと降りてゆく。バスから降りて、ひとり雑踏の中に放り出されると、大地を踏む足許から急速に目覚めた意識と体が、ここが確かな現実であることを、ようやくはっきりと、私に理解させる。
 まだ朝早い。店舗は皆閉まっているし、擦れ違う人々は皆まっすぐ前方を見つめて、せわしげな様子。旅行者相手の客引きやナンパに警戒せよ、と多くのガイドブックには書かれているが、初対面のアテネの第一印象は、むしろそっけない。
 代わりに私を受け入れ、挨拶をしてきてくれるのは、犬たちだ。道には大きな野良犬たちが、多くうろついている。舌を鳴らすと近付いてきて、軽く頭を撫でると、足に体を擦りつけてじゃれつきながら、しばらく並んで歩いたりする。

 まずは、今夜泊まるホテルを探さなければならない。ガイドブックから値段の手頃な一軒を選び、地図を頼りに辿り着く。
 フロントで話を切り出すと、支配人らしき人物が階段の上から現れて、大声で何か叫び出した。 ギリシア語だからわけが分からないが、何か怒っているような口調。 それまで応対してくれていた穏やかそうな人を押しのけ、「ハロー?」と言って くる顔が、何故か威圧的。部屋があるかどうか尋ねると「ノー!ノー!」と怒鳴り、まるで「とっとと出て行け!」と言わんばかり。圧倒されて呆気にとられながら、そのホテルを後にする。
 2軒め。ここでも応対は冷たい。空きはない、と、そっけなく言われる。
 オフシーズンだし、ホテルはすぐに決まるだろう、と思っていた私は、 予想どおりにいかなかったことに早々に打ちのめされて、はりきって3軒 めを探そうとはせず、メトロポレオス大聖堂前の広場の傍らに座り込ん でしまった。

 2匹の犬が近付いてくる。餌をねだろうとしている風でもなく、もちろん威嚇してくるわけでもない。ただ、人の相手をするのが嫌いではない、といった様子だ。
 こうやって異国の広場にひとりぽつねんと途方に暮れながら犬と一緒 に座り込み、行き来する人々を眺めていると、何だか旅芸人にでもなっ た気分だなあ、と、既に空想の世界に逃げようとしている私。
 気の置けない友人のように静かにそばにいてくれる2匹のおかげで、 こんなところであてもなく座り込んでいても、何やら落ち着く。

 とはいえ、すっかり気力を削がれてしまった私は、犬に遊んでもらっ てもいまいち元気を取り戻すことが出来ず、初日からこれ以上焦燥に振 り回されるのも厭だったので、開店の9時を待って、近くにある日本人経営の旅行会社に行ってみることにした。
 出来るだけ安めのホテルを、とお願いし、安いところから順に問い合 わせてもらったが、何軒も断られている。本当に混んでいるようだ。イ ースターが近いとはいえ、夏のハイシーズンでもあるまいし、まさかこ んなに混んでいるとは思ってもみなかった。
 5、6軒めだっただろうか。ようやくシングルルーム2泊の予約が取 れたが、朝食なしで一泊21,000ドラクマもするホテルだ。日本円にする と7千円。仕方がないのでお願いするが、予定の倍額以上である。
 イースター中は船のチケットや島のホテルも危ないですよー、と言われ、 楽観的だった私は、ここにきて初めて、この旅に不安を覚えた。
 予約してもらったホテル代を支払わなければならないので、 すぐそばにあったCAMBIO(両替所)で5万円を両替。 CAMBIOの人も、何故か、ものすごく機嫌が悪い。 挨拶しても返事をしてくれないし、 「どこのホテルに泊まるんだ?」と聞いてくる口調がコワ イ。ホテルへ行くと、フロントの人が、またまた非常にぶっきらぼう。精一杯の笑顔を向けてみても、ただ睨むように見据えてくる。

 しかめっ面や、ふくれっ面ばかり目にしていたら、何だか疲れ果ててしまった。とりあえず体をさっぱりさせて気分を変 えようと、バスルームへ。21,000ドラクマもするのだから、当然バスタ ブ付きである。ドライヤーや、テレビや、エアコンや、新聞や、要らな いものがたくさんある。それなのに、眺めは全く楽しめない。窓を開け ても、向かいの建物の灰色の壁しか見えない。







 しばらく休息を取り、午後1時、いざ気を取りなおしてホテルを出る。
 初めに気付いたのは、光の色の変化。
 魔法をかけられたような感覚に、くらり、とする。 ほんの数時間のうちに、アテネは朝とはまるで違う顔になっていた。
 今にも降り出しそうだった曇天はいつの間にかすっきりと晴れ渡り、 陽光輝く路上は、生き生きと楽しげな観光客で溢れている。
 ギリシアの春は、確かに「楽園」である。心からそう思った。あたた かな太陽。咲き乱れる花々。鳥の声。オリーブ、松、椰子、糸杉。ジャ スミン、オレンジの香り。祝福された、いのちの息吹。
 丘の上のパルテノン神殿を目印に、黄金の日差しが降り注ぐ中を足の向くままに 彷徨う。緊張していた朝とは違い、荷物からも開放され翼を感じる今は、 地図を見る気分ではなかった。それでもやがて目の前に、 アクロポリスへと続く道が現れた。

 チケット売り場を探して案内板を見ていると、一人のおじいさんがどこからか近 付いてきて教えてくれた。入場料は2,000ドラクマ。(毎週日曜は無料 になるらしい)
 入ってすぐの場所から、イロド・アティコス音楽堂が見下ろせる。 しばらく座り込んで眺めたあと、再び道を進み、前門を通過し、 パルテノン神殿と向き合った。
 込み上げてきたのは、感動、というよりは、懐かしさ、であったよう な気がする。絵の中に飛び込んでしまったような浮遊感。 それと同時に、自分が今 ここに在ることが、あくまで自然、当然であるような気持ち。
 これまで写真や映像でさんざん目にする機会があったからかもしれな いが、理由はきっと、それだけではない。その堂々とした姿は、近寄りがたい 荘厳さで見るものをむやみに威圧するのではなく、むしろ包容力をもっ て誰しもを受け入れる。女神アテナの烈しく厳しいイメージとは異なり、 途方もない懐の深さがある。大理石はいのちを持ち、しなやかで柔らか な、神の肌のよう。工事のためのクレーンや鉄骨が、そこかしこに目立つのが残念だ。
 街中と同じように、ここ、アクロポリス内でも、たくさんの野良犬が 自由に歩き回り、ライオンのように悠然と寝そべっている。遥か古から ずっと、勇者や女神たちと共にあったであろうその引き締まった堂々とした体躯は、神話の世界によく似合う。
 続いてエレクティオンへ。アテネの町を救う生贄となったエレクテウス王の6人の娘たちを祀る神殿だ。その優美な姿の虜となり、つい何度もシャッターを切る。
 博物館では、蛇をかざすアテナの烈火の情熱に見惚れ、生贄の羊や牛 が殺される場面の生々しさに立ち尽くした。
 また、思いのほか多く見かけたのが、コレ女神像だ。「コレ」とは娘の意で、デメテルの娘、のちにハデスに誘拐されて死者の国の女王となるペルセフォネの別名だ。死の香りをまとい、イメージがどことなく仏像に近い。
 アクロポリスを去る前に、もう一度城壁沿いをぐるりと回って、遠景を見晴るかす。北側、シンタグマに並ぶ繁華街、オモニア広場へと続く太い道。北東には、独特な形のリカビトスの丘。北西側すぐ下に広がる緑のアゴラの中、どこか控えめなヘファイストス神殿。東南にはディオニュソス劇場。 その向こうに小さく、ゼウス神殿。







 アクロポリスから出てくると、入場口を探していたときに出会ったお じいさんがまた近付いてきて、「次はどこへ行くの?」と話しかけてきた。
 先ほど出会ってから二時間くらいは経っている筈なのだが、彼はずっとここにいたのだろうか。
 彼の名はE。デンマーク人で、アテネに部屋を借り、描いた絵を売って暮らしているという。年配の人だと思い込んでいたが、後で尋ねてみると58歳で、おじいさんと呼ぶにはまだ若すぎた。
 アテネでは自称外国人旅行者が友達になるふりをして悪徳バーに連 れ込む、とか、親切に観光案内するふりをして悪徳旅行代理店に連れ込む、とか、 そんなトラブルを、ガイドブックでさんざん目にしていた。
 用心して、初めはそっけない態度を取り続けていたのだが、それでも彼はなかなかそばを離れようとしない。何かを要求されるわけでもないし、同じ方向に歩いてこないで、と言えるわけもなく、話が弾み始めると、成り行きで、そのままなんとなくお友達になってしまった。
 カフェでコーヒーを飲み、ゼウス神殿へ行き、17時の衛兵交代を見て衛兵と一緒に写真を撮ってもらい、国立庭園を散歩し、第一回近代オリンピックの会場となったスタジアムのトラックで、駆けっこをして遊んだ。  彼のアパートで、夕食をご馳走になった。ギリシアの伝統料理ギロを買ってくれて、ワインも出してくれたのだが、疲れのせいか、残念ながらあまり食が進まなかった。食後のオレンジは、とてもおいしかった。

「夕食の招待を受けてくれてありがとう」と、彼は言った。それは、「信じてくれてありがとう」という意味だったのだろうか。
 年齢、性別、国籍を超えた友情を、私は固く信じている。ただし相手も同じ種類の魂を持っているかどうか、それが「好意」なのか「罠」なのかを見分けるためには、直感だけでは頼りない。時に幸運の手助けが必要になる。
 悲しいことだが、「友情」を信じて痛い目にあう多くの旅行者の存在も、世界のあらゆる場所での確かな現実なのだから。
「旅人を助けたいんだよ。旅人のために、何かしてあげたい。自分も旅を愛し、今もなお旅人で、多くの人に親切にしてもらったから」という彼の言葉を信じたこの日の私は、本当に幸運だった。
 私が彼から受け取ったのは、嘘でも偽りでもなく、奇跡的なまでに温かく、純粋な、真心だったから。この日彼に会わなかったら、私のギリシアの旅は、この後どうなっていたか分からない。

 すっかりご馳走になった後、夜道をホテルまで送ってもらう。
 闇の中、美しくライトアップされ、幻想的に浮かび上がるパルテノン神殿を見上げる。スタジアムや国立庭園にも今一度足を伸ばしたので、ホテルに帰ってきた頃には22時を過ぎていた。
 部屋に入ったとたんに、おなかが痛くなる。楽しんでいたようで、どこかでやはり、張り詰めていたのだろうか。唸りながらベッドに入る。
 長い一日が、瞼と共に閉じた。


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