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■ 4月7日 カランバカへの列車の旅 ■ 5時30分起床。 熟睡は出来なかったが充分な時間休ませてもらい、しっかり朝食を頂いた上、列車の中で食べなさい、と、サンドイッチとリンゴとオレンジまで持たせてもらった。 7時に家を出て、シンタグマ地下鉄駅のホームまで歩いて送ってもらった。 今日こそアテネを離れるのだから、しっかりしなければ。 そう自分に言い聞かせながらも、無性に不安が込み上げてきて、並んで歩くEの肩を理由もなくバンバンと叩き、「うーー!」とか「あーー!」とか唸ったり叫んだりした。 大きな背中だ。Eは笑っていた。 ギリシアの旅初日の偶然の出会いから始まって、この3日間ずっと、私はEにお世話になりっぱなしだった。「お世話」なんて言葉では足りない。友人のような、保護者のような、絶妙な距離感で、なんの見返りも求めずに面倒をみてくれた。 「何か問題が起きたら、すぐ電話して、いつでもアテネに帰ってくればいいんだからね」と言って、見送ってくれた。 さあ、また始まる。 今日は、かなりのゆとりをもって国鉄駅に到着。 また犬を構いながら、目的の列車が入ってくるのを待ち、指定された座席に座り、ほっと息をついた。 窓から入ってくる光の柔かさと、列車に揺られる特有のリズムで、じきに私はうつらうつらし始めた。眠りたくはないのだが、こののどかさに抵抗できない。 時折目を覚まして外を見ると、山並を背に、広い平地が続いている。目をしばたたいて、一瞬一瞬を網膜に焼き付けたい、と願うのだが、またいつの間にか、どうしようもなく眠りに吸い込まれてゆく。 ■ ■ ■ カランバカまでは遠い。6時間ほど掛かる。 事前に調べたガイドブックには、途中パレオファルサロスという駅で乗り換える、と書いてあったのだが、直通で行ける筈だとEが何度も言うので、そうなのかもな、という気になっていた。 お昼を過ぎ、もらったリンゴをかじりながらぼんやり窓外を眺めていると、隣の席の少年が、唐突に英語で話しかけてきた。 「カランバカへ行くの?」 そう、と頷くと、 「次の駅で乗り換えだよ」 と、にっこり笑って教えてくれた。 ああ、またやってしまった。昨日のバスで、懲りたはずだったのに! なんでも自分で責任をもって、最後まで確認しなければならない、と・・・・・・。 優しさの中に少しおどけを含ませた、穏やかで、かつ快活な、深く透き通った褐色の瞳の少年。まるでヘルメスのようだ、と思った。 ゼウスの貴重な秘書役であり、その翼のサンダルで使神として飛び回り、別の次元へゆこうとするものの道標として現れるヘルメス。 商業の神であると同時に、盗人の神であり、博打や嘘を庇護する。冥界への使者であり、旅人の守り神でもある。 生死、善悪、全ての境界を越え、とどまるものよりも進むものの味方。風の向こうに、ゆくえを示す。 オリンポス12神のうち、若者であることがその個性を形作るうえでの重要な一要素になっている神は、2人いる。 ヘルメスと、アポロン。どちらも、ゼウスの妾腹の息子だ。 正妻ヘラとの間に生まれた2人の息子、戦の神アレス、鍛冶の神ヘファイストスも、「息子」であることに変わりはないが、彼らにとって「若さ」というものは、さほど厳格に意識される属性ではない。 だが、ヘルメスとアポロンは違う。 人付き合いがよく、ずば抜けて頭が回り、フットワークが軽く、飄々として役目をこなし、悪戯をしてもどこか憎めない風情をたたえた使神ヘルメスと、美貌と知性をあわせ持ち、医術、音楽、詩、予言、あらゆる力を自ら駆使し、支配し、光輝く太陽の神アポロン。 その複雑さ、気まぐれ、繊細、不確かさ・・・・・・。彼らは「若さ」の具現者であり、「成熟」を背負うことがない。 いずれにせよ、各々の好き嫌いを横に置けば、どちらも基本的には人々に愛されてきた神である。彼らを若く、美しく思い描くことは、ただ単純に楽しい。 「次の駅って、パレオファルサロス?」 「うん、そうだよ」 パレオファルサロスで乗り換え。やはりガイドブックが正しかった。 少年が言うには、発車後、車掌さんが切符を確認しに来たときに、彼女がカランバカまで行くから乗り換えのときに教えてやってくれ、と、同じ車両の人たちに頼んでおいてくれたそうだ。 私のほうからは、車掌さんに、乗り換えについて何も尋ねなかったにも関わらず。 そういえば車掌さんが出て行くとき、何故か皆が席から伸び上がって私のことを見ているようだったので少し不思議だったが、単にアジア人女性のひとり旅が珍しいのかな、くらいに思っていた。 アテネでは、ギリシア人の激しさ、荒っぽさを目にする機会が多かったので、その少年の優しく穏やかな話しかたと表情、物腰の柔かさは、しっとりと染み込むように、別のやりかたで、私の心に強い印象を刻んだ。 この地ではきっと、神話世界の住人たちと同じように、人々は皆呼吸のように自然に、それぞれの個性を具現している。いわば、「キャラが立っている」のだ。 「いい旅をね!」と微笑んでくれた少年の声に送られて、私はとてもあたたかな気持ちと勇気をもらって、列車を降りた。 ■ ■ ■ パレオファルサロスからカランバカまでは、約1時間。人の流れに沿って進み、乗り換えは無事に済んだ。 奇岩は、唐突に現れた。見慣れた新宿の高層ビル群と同じくらい、町の背景として、あくまで当たり前のように。 あまりにすんなりと視界に入ってきたので、私はかえってそのことに動揺した。初めて見るものにとっては極めて異様に映る筈のその風景が、舞台の書き割り程度にしか、私の心を波立たせなかったのだから。 多分、あらゆる奇跡というものも、こんな風に唐突なものなのだろうと思う。 夢と現の境目も、可能と不可能の臨界も、抜けてみればあまりにあっけなく、あっという間に肌に馴染み、融点を越え、魂を浸してしまうものなのだ。 「経験」とは、繊細で疑り深い「理性」に比べ、本当に、タフで逞しい。 カランバカ駅のホームに降り立った人間は、ごく僅か。 町のメインストリート、トリカロン通りを歩く。 観光客どころか、住人の姿も見当たらない。真っ青な空の下、昼寝中の町。時刻は午後2時。アテネでは全く意識する必要のなかった、シエスタの真っ最中である。 カランバカのホテルは、夏のハイシーズン以外は閉めてしまう所が多いらしいので、通年オープンであることをあらかじめガイドブックで確認しておいた中から、まずは第一候補のホテルへ向かう。 目的の看板を発見して中に入ると、ロビーは真っ暗。フロントにも誰もいない。営業を休んでいるのかな? と思いながら覗き込んでいると、どこからか少年が「ママ!ママ!」と呼ぶ声がして、奥からやや怪訝そうな顔をしながら、中年女性が現れた。 一泊したいと伝え、値段を尋ねた。 Cクラスホテルのオフシーズンの相場が約10,000ドラクマ(ドラクマは日本円の約3分の1だから、3,300円くらい)なので、だいたいそのくらいの値段で交渉しよう、と思っていたら、バスタブ付きの部屋で一泊5,000ドラクマだと言われた。 信じられないくらい安い。「five thousand?」とはっきり聞き返したが、そうだ、と言う。もちろん即決である。 キーを渡され、部屋に向かう。シャワーを浴びて、ベッドの上に大の字になり、しばらくぼんやりと転がったり、窓を開けて奇岩を眺めたりした。
このホテルは頂上にアギオス・ステファノス修道院を戴く岩山の麓に位置し、見上げれば、青い空に白い十字架が、小さく、だがはっきりと瞳を射る。 この静穏な空気が、自分が旅人であるということを、アテネの喧騒の中にいたときよりも遥かに強い現実味を帯びて、私に自覚させる。 様々な線が交錯して常にざわめいている都会では判別しにくいが、田舎でははっきりと見える。 今の自分は平面の中に飛び込んだ、明らかに異質な、ひとつの「点」である。 遠くまで来たんだな、と思う。 ■ ■ ■ 4時頃、散歩に出掛けた。 静かでこじんまりした、良い町だ。歩きやすい。 着いたときはゴーストタウンのようだったが、夕方になり、広場やカフェにちらほら人が集い始めている。 まずはバスステーションへ行き、明日の宿泊予定地、デルフィへの行きかたを確認する。デルフィまでの直通バスは明日は出ていないので、アンフィサという町で乗り換えなければならないとのこと。発車時刻を教えてもらって、その場を後にする。 遊ぶ子供。バイク二人乗りで駆け回る若者。飼い犬の吠え声。広場の露天。 神の領域の麓に、人の領域。青い天に、赤い屋根。気張らず、ごく自然な、見事な融合。 このSF映画のセットのような風景を故郷とする人々の魂のことを考える。適わない、という気がする。
奇岩は見れば見るほど「なんだこりゃー」という感じで、飽きない。 第一印象は衝撃的ではなかったが、不思議な感覚がじわじわと長続きする。 ひととおり町中をぐるぐる回り、途中見つけたスーパーで水とオレンジジュースとヨーグルトを買い、そのジュースを飲みながら、町外れのほうにある11世紀のビザンティン教会まで足を伸ばして、7時頃、ホテルに戻ってきた。 夜になり、他の部屋にも人が入っている音が聞こえてきて安心する。昼間はあまりにも空いていて、その静けさがフィクションのようで、なんだか怖かった。 明日は満月。復活祭まで、あと、ちょうど一週間。 洗濯をして、10時には眠った。 + B A C K + N E X T:メテオラ
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