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■ 4月9日 世界のへそデルフィ・雨 ■ ギリシア民謡を聞きながらの、長距離バスの旅。車内はほぼ満席。 トリカラを3時に発ったバスは、途中ドライブインのような場所で15分ほどの休憩を挟み、6時半、ごくありふれた小さな公園の前で唐突に停車。 アンフィサだといって降ろされる。降りたのは私ただ一人だ。 バスはさっさと発車してしまった。いったいここはどこだろう。バスステーションの前で停まるものとばかり思っていた。 公園で子供を遊ばせていたお父さん、お母さん、おばあちゃんたちが、一斉に怪訝そうな視線を向けてくる。 臆せず近づき、「バスステーションはどこですか?」と話し掛けたが、一様に首を横に振られてしまった。 バスステーションの場所が分からないなんてそんなバカな、と思ったが、どうやら英語が全く通じないらしい。 デルフィまで行きたい、そこまでバスに乗りたい、ということを、文字で書いたり地図を見せたりして何とか伝えようとするが、どうにもうまくいかない。 それでも皆、互いに声を掛け合いながら、一生懸命何とかしてくれようとしてくれているのが分かった。 やがて、その中のある若い夫婦が近くから車を回してきて、乗れ乗れと身振りで勧める。 まさかデルフィまで乗せていってくれる筈もないし、意図を尋ねても、分かっているのかいないのか何も答えてくれないし、躊躇っていると、いいから乗って、というように、荷物をトランクに積み込まれてしまった。 とにかく乗ってみることにする。妙なことにはならない、と、直感が教えていた。 白い肌に金髪の、華奢な美青年のお父さん。太陽に愛されて育ったやんちゃ坊主のような笑顔。身にまとった軽快さ。 やや浅黒い肌に長い黒髪を波打たせ、肉感的、かつキュートなお母さん。若く華やかな人だが、それでもその穏やかでゆったりとした眼差しは、妻、そして母である成熟した女性としての、ヘラのような威厳を感じさせる。 その膝に抱かれて、後部座席の私を上目遣いにじっと見つめてくる、小さな女の子。 「何語が分かるの? イタリア語? 英語?」と、切れ切れの単語の断片で尋ねられ、英語ですと答えると、車は左に曲がり、近くのタベルナの前まで来て停まった。 そのタベルナには彼らの友人らしき若者がいて、彼は車に乗ったままの私のそばまで近づいてくると、どこへどうやって行きたいのか、丁寧に英語で話しかけてくれた。 彼は私の話を夫婦にギリシア語で伝え、夫婦はそのまま、私をバスステーションまで送ってくれた。 バスステーションの窓口の若者が英語を話せるかどうか、確認してくれるほどの親切ぶりだった。じゃああとは彼にね、と身振りで示すと、きちんとお礼を言う間もないまま去って行ってしまった。 私が彼らからアポロンやヘラの面影を連想していたことなど、知る由もない。絵になるような外見も、その真心も、本当に美しい家族だった。 夜8時半までバスは来ないようなので、約2時間待たねばならない。 メテオラで歩き疲れているので町を散策する気にもなれないし、そもそも手持ちのガイドブックに乗っていない町なので地図もないし、ひたすら待合室で過ごすしかない。 待合室内の公衆電話から、デルフィのホテルに空室の問い合わせをする。一軒めは満室。二軒めは空いていた。料金を確かめ、予約する。 待合室の外の風景は加速度的に薄暗くなってゆき、やがてとっぷりと日も暮れた。もう真っ暗だ。 2時間は、そう長くはなかった。ガイドブックを眺めたり、一人退屈そうに座っているバスステーションのお兄さんに話しかけてみたり。 やがて目的のバスが来て、乗り込む。大荷物の旅行者たちで、そこそこ混み合っている。 ■ ■ ■ それは唐突に、窓外に現れた。 巨大な熟れた果実のような、円い満月。 そのあまりの美しさに、感動を通り越して、半ば呆然とする。黒い夜空に供された光の滴りは、遥かの天体とはとても思えない。まるで神の食物、アンブロシア。 デルフィに近付くにつれ、その質量と成熟をいや増してゆくように見える。口に含んだら、甘く、とろけてしまいそう。味わえば、きっと、千年生きられる。 9時半、デルフィに到着。予約したホテルの看板を見つけるまで、かなりの距離の階段を上った。 町はコリンティアコス湾を見下ろして、山の斜面に張りつくような構造になっている。階段の町、デルフィ。滞在するホテルは、中でも一番の高台にある。 扉を開ける。フロントの男性が、「待ってたよ」と笑顔を向けてくれる。こんな風にあたたかくフレンドリーに迎えてくれたホテルは、ギリシアに来て以来初めてだ。とても嬉しくなる。鍵を受け取ると、親切、丁寧に、滞在中の説明をしてくれた。 部屋も悪くない。バスタブはないがシャワー付きだし、部屋に隣接して12畳くらいの広いテラスがある。洗濯物も思いきり干せるし、朝になれば、きっと眺めは最高。朝食付きで、料金も手頃。一週間くらいゆっくり滞在したいようなホテルだ。 カランバカから南に下ってきたわけだが、スキーリゾートとしても知られているパルナッソス山の懐に位置するこの町は、かなり冷え込む。 肌寒さに肩を抱きながら、ブドウの蔦が絡まるテラスに出てみた。再び見上げる、滲んだ満月。 こんなにも月へ近付いたことへの恍惚と陶酔。闇と光を共に取り込んで、体内で一体化させたかのような満足感。 遥か古代、その神託の力で、国家の重要人物たちを含む多くの人々を引き寄せ、世界の中心と位置づけられたデルフィ。 21世紀最初の復活祭直前の満月を、「世界のヘソ」から見る。 そして身を委ねるのは、予言の眠り。 ■ ■ ■ 目覚めたら、雨。思いも寄らぬことで、しばし頭が空白になる。 カーテンを開き、ベッドの上、ぼんやりと濡れたテラスを眺める。立ち昇る霊気のような濃い白い霧が、眠りの名残までをも侵す。 夢を見ていたような気がするが、よく思い出せない。零時から7時まで眠って、果たしてアポロンの託宣は。柔らかく寄せてくる閉塞。こんな霧の中では、何も分からない。 昨夜言われたとおりに8時に食堂へ降りて、時折空模様を確認しながら、1時間かけてゆっくりと朝食をとる。数種類のパンやミルクやオレンジジュースが、たっぷり用意されている。 このホテルは、家族経営だそうだ。どうりで雰囲気が温かいのだろう。 コーヒーを注ぎに来てくれる男性は、昨夜のフロントの男性に負けず劣らずの巨体で、スキンヘッド。『オースティン・パワーズ』のドクター・イーブルに似ている。 雨は一向にやむ気配を見せない。たいした降りではないので、身動きが取れないわけではないのだが、このままデルフィを発ってしまっては、この地の記憶は、ただ満月と霧だけになってしまう。 拘束のない旅なのだし、慌ただしく動く必要もない。過ごしやすいホテルだし、町の雰囲気も良さそうだ。 もう一泊することに決めて、フロントにそう伝えた。二泊するなら、と、部屋代も一泊13,000ドラクマから1万ドラクマ(約3,300円)にまけてくれた。疲れも溜まっている筈だし、今日は一日、部屋でのんびり過ごそう。 本を読んだり書き物をしたりしているうちに正午を過ぎたが、雨はまだ降り続けている。
少し退屈してきたので、ナイロンパーカの帽子を被り、雨の中、外に出てみた。昨夜の到着時は暗くて周りの様子がよく分からなかったので、まずはバスステーションまで歩いて位置を確かめておく。 明日は、オリンピアまで移動する予定。まずはペロポネソス半島の西の玄関口、パトラまで出る。パトラからピルゴスまで列車、ピルゴスからオリンピアまではバスを使うつもりだ。 デルフィからパトラまで行くバスの、出発時間と料金を確認。午後1時の便があるので、午前中をまるまる観光に使える。 時間が余っている今日のような日に部屋で手紙でも書こうかな、と、バスステーションに併設されている売店で絵葉書を眺めるが、心惹かれるものが見つからなかった。 土産物屋の店先を覗きながら、メインストリートをぶらつく。 アポロンは姿を隠したまま、彼の土地を訪れた私を、その黄金の笑顔で迎えてはくれない。どうやら、相性は良いとはいえないようだ。 まあ、確かに私は、アポロンのことがあまり好きではない。 彼がここデルフィの巫女シュビレに与えた、永遠の若さを伴わぬ永遠の命にしろ、トロイのカッサンドラに与えた、決して誰からも信じられることのない予言の力にしろ、アポロンの愛の形はあまりにも自己中心的で、横暴で、押し付けがましい。しかも振られたときの復讐のやりかたが、ひどく残酷だ。 彼に捕まるまいとその顔を引っ掻いたアカントスを、怒って葉アザミに変える。 彼を拒んで月桂樹に姿を変えることを選んだダフネを、それでもまだ、自らの聖木と定めることで縛ろうとする。 気に入った相手が自分を受け入れなければ腹を立て、愛されて当然の筈の自分に応えない相手こそが間違った存在であるとし、裁く。 その一方的な所有権の確信と主張、執行は、妹をも呪縛する。 アルテミスがオリオンを愛せばそれに嫉妬し、策を弄してアルテミスを騙し、彼女自身の手でそれと知らずオリオンを射殺すように仕向ける。 手に入らなければ、壊す。独占欲も強い。相手が独立した意志のある生き物だということを知らない、幼児のよう。 一方、自らが愛を向けられた場合には、まるで無頓着。彼に愛されることを願ったクリュティエが、報われぬ片想いの末、終日彼を見つめ続けるひまわりに姿を変えても、平然と無視を決め込む。 彼が愛した美少年ヒュアキントスとは両想いだったようだが、ヒュアキントスの命は短く、儚く、一瞬のうちに奪われた。同情はするが、そのヒュアキントスにしろ、ずっとアポロンのものでいることを自ら選んだかどうかは分からない。 太陽の燦爛たる光が、アポロンの面差しに、濃い陰影を作る。 美貌、才能、祝福や崇拝を受け取り、種種の力を巧みに操り、自信に溢れ、彼に出来ぬことはない。 豊かな感情と冷静な頭脳を持ち、明るい軽口をたたき、日々を楽しみ、全てを手中に輝く彼の横顔が、ある霹靂の一瞬、ひどく醜い姿に歪む。 陰湿で、傲慢で、身勝手で。彼が振られる理由は、よく分かる。理想の恋人像とは決して言えない。 だが、それでも。それなのに。時にアポロンに惹きつけられるような気持ちになるのは何故だろう。 キャラクターとしてのアポロンは、その光の強さに比例した影を経験するからこそ、魅力的だ。 激情をうまく飼い慣らせないその繊細さを、愛せないこともない。 ディオニュソス的な開放に押し出された感情の「波」よりも、アポロン的な律に支配された感情の「渦」が、かえって強く魂を揺さぶることがある。 同族嫌悪であり、同族恋慕でもある感情――。誰にだって、光と影がある。 ■ ■ ■ そのアポロン神殿のある遺跡の近くまで歩いてみた。見学は明日にするつもりだったが、今日のうちに場所を確かめておくのもいいだろう、と思った。 駐車場には何台もの観光バスが止まっていて、この雨の中でも、かなりの混雑。ちょうど昼時だし、アテネからの日帰りツアーも多いのだろう。 古の時代、多くの個人、そして国家の運命をも司った、デルフィの巫女たち。 彼女たちは月桂樹の冠を被り、或いはその葉を噛んで、神殿の地下室の床から噴き上げる特殊な蒸気を吸い、錯乱状態となって、予言を口走ったとされている。 神託の土地で、私の未来は、霧に包まれている。こじつけでも良い。道標を探そうとする。全ては未知。そういうことだろうか。 + B A C K + N E X T:デルフィ・虹
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